prayforpeace165’s diary

Pray for peace.すべての人の心に平和と愛のメッセージを。

私のキャリアと生き方。日本の過去と未来考察

大学卒業後から結婚までは教師をしていましたが、専業主婦となり家事育児に専念していましたが、働いていない、社会との関わりがない、貢献性が低い、と「感じてしまい」、子供は可愛いけれど悶々とした日々を過ごしていました。

 

今振り返ると生まれてから3年半。

寝返りをしてつかまり立ちをして歩くようになって、言葉もはっきりして、ちゃんと会話できるようになって、

最初はおっぱいやミルクだけだったのに、離乳食を始め、だんだん食べられるものが増え、大人と同じものが食べられるようになって、自分ひとりで食べられるようになって、

どんどん自分でできることが増えていく。

 

写真を見るとその成長過程がとても懐かしく、かけがえのない時間だったのだと思います。

 

でも当時は、毎日接しているとその小さな成長を楽しむ余裕もなく、

朝ごはんを食べて公園に行って遊ばせて帰ってお昼ご飯を食べて昼寝させて、一緒に少し寝て家事をして、起きたら遊んで夜ご飯を食べて入浴後に寝かしつけ、

の無限ループに

「毎日同じことの繰り返し…」

と感動や自分の成長を感じられない、

下手したらほとんど「大人」と話をしない、朝晩旦那と少し話して後は言葉の通じない子供と過ごすだけ、という日々に自分の生きがいや居場所のなさを感じていました。

 

それはきっと、そもそも自己肯定感が低かったり、自分の存在意義を感じられていなかったからであって、子供がいるいない、仕事をしてるしていない、の問題ではなかったのだと思うし、

そういう意味では「仕事をしてる」ということは分かりやすく社会貢献感を与えてくれる、手っ取り早い存在肯定になり得るのだろうなと思います。

本当の存在意義、自己肯定感は何かをしているから(仕事をしているから)とは関係なく、

「何にもしていなくても社会貢献していなくても、生きているだけ、存在しているだけで自分には価値がある」と思えることなのですが、

それは目に見えない、他者からも判断されにくいことなので、どうしても「仕事」や「財産」、「何をしたか」や「何を得たか」で自分や他人の価値を計ってしまうものだと思います。

 

特に日本は亭主関白、男尊女卑の意識もまだ根強く、「女性の社会進出」や「1億総活躍時代」なんて言われていますが、

これらの言葉や施策は、表向きには

「女性の社会的地位をあげよう、女性の能力を社会に生かそう、結婚や出産、介護でキャリアを断念した専業主婦の潜在的価値を社会で発揮してもらおう」ということですが、

国や政治家たちの本心は、

これからの労働人口減少、人手不足、超少子高齢化社会保障費の増大という課題の解決策として、働ける人には出来るだけ働いてもらって厚生年金などの税金を払ってもらい、収入を得ることで自分たちの生活は自分たちで守ってもらいたい、

といったところでしょう。

 

それは悪いことではありません。

現実問題、すでに労働人口減少、人手不足によるサービスの低下や外国人労働者受け入れ、少子高齢化に伴う高齢者への社会保障費の増加問題、少子化対策として幼保無償化などなど、

日本が直面している財政危機は、今まで社会保障で手厚く守られてきた日本国民たちにとっても深刻で、今までのように「国がなんとかしてくれる」というわけにはいかなくなることが予想されます。

 

私たち国民一人ひとりが自分たちの生活に責任を持ってしっかり対策することで国の社会保障に頼ることなく健全な国の財政が保たれると言えます。

そうなると、女性が働いて税金を納め、収入アップ分でしっかり老後資金を準備したり、各自で自助努力をすれば国としても助かる、ということになります。

女性が働き厚生年金を納めることで、老後に受け取る年金額を増やすこともできるため、国民側としてのメリットがまったくないわけではありません。

 

少子高齢化なため国民年金額が減ることは避けられないと思いますが国の制度なのでまったく貰えなくなることはあり得ませんし、終身年金=生きている限りもらえるので、今言われている「長生きリスク」対策としては有効ですし、障害状態になったときの障害年金や亡くなったときの遺族年金として支給される機能もあるので国民年金はきちんと納めておいた方が良いと思います。

 

私が個人的にイラッとしてしまうのは、

「女性が輝く社会」

「1億総活躍時代」

などと綺麗事を並べて女性が働くことを推進していることです。

 

正直に、

少子高齢化労働人口も減ってしまい、今後の国の財政が危険なので、どうか働ける他人は働いて税金を納めて自分の収入を上げて自助努力をしてください」

と国民に頭を下げれば良いのに、と思います。

女性が働くことは自立した自分の人生を生きる、家庭以外の居場所を持つ、子育てに集中し過ぎないことでお互い適度な距離を保てるし子育てをママだけでなく、保育園や学校など家庭以外にも分散することができる、収入を得ることで自信にもつながり、精神的にも経済的にも安定する、収入がしっかりあれば生活保護に陥るリスクや国や自治体からの補助を受けることもなくなり、結果的に国としても社会保障費を削減できるのでみんなHappyと好循環が生まれると思います。

 

しかし!!!

その本心を隠して、さも女性のためを考えているかのような綺麗事の数々…

「女性が輝く社会」

→働いていない専業主婦は輝いてないって言うのかい(怒)

「1億総活躍時代」

→働いていないってことは活躍していないってこときい(怒)

となってしまうのです。

そういう綺麗事に隠された本心て、隠しても隠しきれないというか何となく伝わってしまうんですよね。

人間は見えなくても感じることができるから。

表面的にいくら取り繕っても、綺麗事を並べても本心は言霊に乗って届いてしまいます。

心が伴っていない思いは伝わらないし、一時的には騙せてもいずれバレます。

そして一時的には騙せても後でそれがバレた時には最初からバレる以上に信頼を損ない嫌われ、取り返しがつかなくなる可能性が高いので気をつけたいものです。

自分にも相手にも誠実に生きましょう。

人は本心を押し殺して生きていくと不安定になります、そんな人たちが世の中溢れています。

 

私は自分が経験していて、「妊娠出産育児」は本当に大変で尊い仕事だと感じています。

もちろん社会で働くことすべてに言えることですが、子育てはまた別。

 

赤ちゃんによって、親によって、家庭環境によって、育て方の正解は異なります。

教科書通りにはいかない、

その日、その成長段階によって変わる子供とその対応の難しさ、

予測がつかず、対処の仕方もわからず、本当にいっぱいいっぱいになって、

精神的にも肉体的にも疲れてしまう。

 

料理や洗濯、掃除などの家事に加えて子育てをしてる女性に対して

「輝いていない」「活躍していない」と感じさせてしまうこと自体が、なんて配慮のない言葉たちなんだろう、と思わずにはいられません。

 

ましてや一度キャリアがストップしてしまった子育て専業主婦にとって、保活と求職活動を両立して社会復帰することは容易ではありません。

自分が経験して実感しましたが、そもそも保育園に預けられないと働かない、でも働く予定がないと保育園に入れない…

しかもそれまで専業主婦だった生活から朝保育園に送り、仕事が終わってお迎えに行き、帰ってバタバタと夕飯、入浴、寝かしつけ、翌日の保育園準備、など慣れるまでとても大変です。

 

実現させるためにはパパや周りのサポートが

「必要不可欠」です。

これは声を大にして言いたい!

絶対に必要不可欠!!!

 

私も完璧主義だし、家事育児すべてをやろうとしてしまい、何からやってよいのか段取りやら計画を立てる時点でテンパって爆発する、を何度も繰り返し、最近悟りました。

「そのやろうとしてること、全部やらなくて良い、っていうか出来ないし、ひとりじゃ無理、頼ろう」

 

自分でハードルを上げ過ぎていたし、やはり周りの目を気にしてしまうため、料理するにもいちいち

「これで良いかな?」と旦那や食べる人のことを気にし過ぎていました。

もちろん美味しいご飯を作りたいという気持ちは悪いことではないのですが、そもそも忙しい日常の中で手間暇かけて毎日料理なんて出来ないし、

献立考えて買い物したり、余り物を使って効率よく料理をする、しかもできるだけコスパよく、なんて無理!!!

と開き直って最近は旦那にも

「これで良い?」と聞いた上で簡単なものにしたり出来ることはやってもらうようにしています。

 

ちゃんと伝えないと伝わらないのだけど、伝え方が悪いとうまく伝わらずに喧嘩になるし、逆ギレされると余計につらくなるし、

自分がいっぱいいっぱいだったり、自分を否定して落ち込んで不安定なときは、自分の気持ちを相手に伝えるということが出来なくなってしまって、コミュニケーションを諦めてましたが、それでは何にも解決しなくて…

自分を見つめて癒してあげる、を先にするようにしてから、最近はだいぶマシになりましたが、一時期は酷かった…

どん底のときってもうすべてを諦めてしまっているので誰ともコミュニケーション取りたくなくなるんです。

ちょっとした言葉に勝手に傷付いてしまうし、人と関わるパワーがなくなります。

 

話を戻すと、

ママが仕事をするためには家庭として家事育児をどう分担するのか、働き方と自分たちの生き方、生活の仕方を踏まえてよく考える必要があると思います。

パパはもちろん、そのほかにも頼れる人がいるか、病気のときなどに利用できるサービスはあるか、いくらかかるか、など。

子育ては尊い仕事でこれからの日本を支える人材育成としてはとても大切で責任重大なのですが、だからと言って子育てしながら働くということは雇う側としては綺麗事ではありません。

 

本来であれば、病気、怪我や保護者会などによる子育てにおける欠勤や遅刻早退は周りでカバーされるよう会社としても体制を整えるのが理想ですが、突発的に休まれることを想定して業務を進めることはなかなか難しいと思います。

 

雇う側、管理する側としては急な欠勤や遅刻早退なく、普通に毎日出社して仕事をしてくれる人を採用したいと思うでしょう。

でも、少子高齢化のこの時代に妊娠出産育児を理由に解雇したり採用しない、というのは企業にとってもイメージダウンですし、子育てに限らず、介護離職も深刻なので人手不足、人材不足のこの時代に個々の家庭事情を無視して採りたい人だけ採っていたのでは十分な労働力を確保できません。

企業としても優秀な人には家庭事情がどうであれ、そこを企業全体でカバーし合うので来て欲しい、ずっと長く働いて欲しいという意識があると思います。

以前はそこまでしなくても十分な労働力を確保できたでしょうし、経済成長できていた日本ですが、これからはそうはいきません。

時代の変化とともに、労働者側の権利が強くなり、以前は考えられなかった「労働者が企業を訴える」ということが頻繁に起き、労働者側の権利や訴えが認められるようになってきました。

高度経済成長期には企業の言う通りに真面目に働き単純作業でもそれなりのお給料がもらえて生活できていた、仕事内容がつまらなくても上司が嫌いでも毎日出社して言われた役割を果たせばお金は貰えた、バブル期までは金利もよく銀行に預けていればどんどん増えて、女性は働かなくても家事育児に集中できるだけの余裕があり、親戚や祖父母の手を借りることもできたため、核家族化の進む今よりも家事育児の合理性が高く、経済的な安定感があった、だからつらいことも理不尽なことも我慢できた。

そもそもの戦後は焼け野原でみんな貧しかったから今のように物で溢れているわけでもなく、「羨ましい」とは思っても「みんな持ってるから自分も欲しい、買わなきゃ」と思わずに済んだ。

 

しかし、バブルが弾け、金利はどんどん下がり、少子高齢化による社会保障費の増大など日本の財政危機が訪れ、国民の税負担が増えて手取りが減る、物価や教育費の上昇、長寿化による老後費用確保の必要性、介護リスク、

加えて日本人特有の「みんながやっているから、持っているから」と本当に必要かどうかわからずに買ってしまい長期的には不必要だった…ということも物で溢れる現代では起こっていると思います。

「勿体無い」精神は素晴らしいですが、かと言って必要ないものまで取っておくと物が煩雑になり整理する手間や管理する労力、場所を取るなどの問題もあり、物で溢れる現代だからこそ、「断捨離」「ミニマリスト」という概念が流行っているのだと思います。

 

この数十年で経済、技術、人々の生活、働き方などが大きく急速に変わりました。

親世代と同じ生き方をしていては家計が破綻したり、家庭が崩壊したり仕事を続けられなくなったりする危険性があります。

 

「時代が違う」

「時代に合わせて考え方や常識を変えていく必要がある」

ということを認識して、正しい知識や情報を得た上で、

「自分たちはどう生きていきたいか」をしっかり考えていく必要があります。

 

国や会社が守ってくれる時代ではなくなりつつあります。でもそれを国は正直に言ってはくれません。

「大丈夫大丈夫」と言われてもそれを疑って自分の目や耳で正しい情報をキャッチし、自分の頭で考えて判断していくことが自分たちの生活、家族を守ることに繋がります。

 

悲観的になるのではなく、前向きに

「自分の人生、大切な家族は自分で守る」

という意識が大事。

守ってもらう依存型ではなく、

自分で自分の生活を守る自立型で

国民一人ひとりが生きていくことが出来ればまだまだ日本は大丈夫。

 

私は日本の国や財政には危機感を抱いていますがそれは個人個人が対策可能で、日本が危機的状況になってもきちんと対策していれば共倒れにならずに済むと考えています。

 

そして、一方で日本は歴史、伝統、文化、温泉や美味しい郷土料理など誇れる価値がたくさんあるとも思っています。

少子高齢化で経済不安はありますが、人口減少して消費してくれる人が減るのなら海外からたくさん旅行に来てもらって日本の素晴らしい価値にお金を払ってもらい、満足してもらえば良いと思っています。

 

英語や外国が大好きで、海外旅行ももっとしたいですが、海外に住むよりも日本に来てもらった外国人の方をおもてなしする観光業とか、将来的に出来たら嬉しいなと密かに思っています。

海外旅行から帰ってくると美味しい日本食(特に味噌汁!)と温まるお風呂で

「やっぱ日本最高〜

日本人だ良かった〜」

と思います^ ^

 

色々と不安や不満、後ろ向きになってしまうようなこともあるけれど、その中で自分に出来ること、人にも喜んでもらえて社会のためになること、希望の光を見つけて一人ひとりが幸せに生きられる世の中になりますように。

 

I believe that every single person can make a difference with his/her talent.

Pray for peace.

毒親と観念と私の母

数年前から「毒親」という言葉が広まり、親子関係から生きづらさを抱える人たちの存在が注目されました。

 

教育や子育てに興味があった自分はその手の本や情報を読み漁り、まだ子供もいなかったため、完全に子供視点で

「こんな親がいるなんてひどい!かわいそう!」と思っていました。

親からの言動で心に傷を負い、自分軸を持てず、自己肯定感が育たず、親や周りの人々の顔色を伺い振り回される、そんな生き方になってしまう毒親育ちの人たち。

さぞつらい思いをして生きながらえてきたことでしょう。

元教師として、毒親はたくさんいるなぁと感じたし、毒親じゃない人の方が少ない。

みんな多かれ少なかれその要素はある、と感じました。

程度の差はありますが、喧嘩したり思春期や成長過程で親に反抗したり、親から離れて自由になりたい、好きにさせて!などの思いを持つことはあると思うし、

もっと極端なケースでは親の言うことは絶対、子供に意見や選択の自由はないという育てられ方をしたり、

逆に甘やかされて親の言う通りに生きていれば居心地は良く守られているけれど自分で判断や選択ができない、親に依存したまま大人になってしまい、何でも親に確認して親の理解がないと行動できないということなどもあると思います。

 

自分が親になって実感しますが(とは言えまだ3年半ですが…)、

親子だからこそ、距離が近く感情的になってしまい、適度な距離を保ち、教えるべきことは教えるけれど、本人に任せるべきところは見守り、親は親、子供は子供、違う人格でそれぞれの自立が大切と意識しながら子育てすることはとても難しい…

 

アドラー心理学」でも出てくる

「課題の分離」という言葉。

 

親の課題?

子供の課題?

自分の課題?

夫の課題?

誰の課題?

 

それは本を読んだり調べて分かったつもりになっていても、それまでの人生でしてこなかった、されてこなかった、周りの人もそうではなかった、自分もできなかった、という場合、

染み付いた習慣、条件反射として真逆の対応をしてしまうので、頭で分かっただけではすぐに実践するのはとても難しいことなのです。

 

客観的には判断できても、意外と自分のことは客観的に見れないし、感情や観念があるので自分の普段の行動や思考、感情に戻ってしまいます。

 

「観念」とは「こうあるべき」「こうするべき」という正論、こうでなければならない、という思考です。

それは生きていく上で少しずつ潜在意識に刷り込まれ、その人の物事に対する見方、考え方、反応の仕方(安心、喜び、怒り、不安など)にも大きな影響を与えます。

同じことが起きても反応が人それぞれなのはこの「観念」がみんな異なるからです。

そして、観念は幼少期の周りからの言葉や態度から形成されます。

 

親だけの責任にすることはとても心苦しいですが、ベビーシッターや他人に預けること、子育てを親以外がすることが一般的ではない日本において、「観念」の形成は親からの影響を大きく受けてしまいます。

親が働いていたり事情があり、祖父母や親戚に育てられるケースでも、親の親や親戚である以上、祖父母や親戚に育てられることで親と同じような接し方をされる確率は高いでしょう。

 

結果的に、子育ては連鎖します。

人はされたように人に接する。

育てられたように育てる。

言われたことを人にも言う。

だから嫌でも親のようになってしまう。

親と同じ育て方をしてしまう。

私も「親にされて嫌だったことをしてしまう自分」に落ち込み自己嫌悪に陥りましたが、それは人間として仕方のない、当然のことなのです。

私が悪いわけでも親が悪いわけでも、だれが悪いわけでもなく、

親も親からそうされた、それを変えられなかった。

 

私の場合、最近母方の祖母が母に対してどんな子育てをしたのか、子育てをしてるときにどんな祖母だったのかを聞くと、母も祖母のようにならないように気をつけたり、祖母の突然の理不尽な要求(祖母が友達と会うため新宿に出てくるから幼い子供を連れてあなたも来なさい、と母の都合も考えずに一方的に言いつけたり)を無条件に受け入れるしかない状況に困り、

「これではダメだ」と思ったらしく、長男である兄をボーイスカウトに入れて

「日曜日はボーイスカウトがあるから会えない」と祖母に呼びつけられても堂々と断る理由を作り祖母から逃げたそうです。

 

実際、母は祖母とは離れ、祖母のようにならないよう努力したのだ、と思えたときに私の中で母親に「こうしてほしかった」というモヤモヤした思いは薄れていきました。

それからも時折モヤモヤがぶり返すこともありましたが、母からその話を聞けたことはとても大きかったです。

 

子供の頃は親や周りの大人が絶対で、間違えない、人として正しい、完璧な人間、のような気がしていました。

でも親だって悩みや不安があり、間違えることもある、それにだんだん気付いていきました。

高校生のときアルバイトを始めてからも、仲間のスタッフや指導者、管理者、お客様など、世間の大人がみんなすべて正しい、「大人」ではないんだと気付いたときの衝撃は大きかったです。

親や身近な大人がみんな比較的まともだったため、理不尽で偉そうな客や、年配なのに人としてどうなの?という言動をする人には

「良い年して、なんでこんなにダメ人間なんだろう…」と不思議でしかたなかった…

それは周りの大人がそこそこまともで自分もそうであるように、優等生で育ってきたためだと思います。

 

でも、世の中には本当にいろんな人がいます。

それは家庭環境、育てられ方、周りの大人やメディアなどの情報…様々な影響を受けて、いろんな経験をして、生まれながらの性格も重なり形成されるから、

みんな違うのは当たり前なこと、とやっと腑に落ちました。

 

いろんなことが「分かる」と客観視できて、自分のことも冷静に見れるようになりだいぶ楽になりました。

それができない間は本当にしんどかった…

 

今しんどい思いをしている人の力になれたら…そう願ってブログを綴っていきます。

 

あなたは悪くない、間違ってない。

自分を責めなくて良い。

もう苦しまなくて良い。

自分を大切にしてあげて良い。

人のことよりも自分のことを優先して良い。

 

これらは私が最近自分に言い聞かせている言葉です。

嫌なことやモヤモヤすることがあると紙に書き出したりしています。

自分に戻ってこれるように。

すぐ周りに振り回されてしまうので、そういうときは自分にエールを送り続けています。

 

自分で自分を認める、大切にする、

これが1番難しかった。

今でも難しいけど生きる希望を見失わないために毎日心掛けています。

 

Pray for peace.

世界中の人々の心に平和を。

 

ゆっくり休もう。

今日は土曜日。

 

何をしようかと迷ったけれど、家族3人で近くの交通公園へ行き子供を遊ばせ、お昼ご飯を食べて、車のディーラーで旦那は色々お話して、私は子供とおもちゃスペースでのんびり。

帰ってきてからも私は喉が痛くて風邪気味だし、妊婦だからか眠いので少し休ませてもらって、旦那が夕飯作り中。

 

専業主婦もしていたし、旦那の方が収入高いから私がやらなきゃ、と料理などの家事や育児を任せることに罪悪感があり、ひとりで抱えすぎていっぱいいっぱいになって爆発してしまう性格でした。

でもそれは私が勝手にそう思っていただけで、ちゃんと言葉にして伝えて、何を手伝って欲しいのか、どこまでは出来るかなどを相手に理解してもらったうえでどうするかを話し合えば良かったのに、いっぱいいっぱいになると言葉もきつくなって自分の気持ちや状態をうまく伝えられなくて喧嘩になったり傷付け合ってしまったり…

 

正直、離婚寸前危機が何度もありました。

これからもあるかもしれない。

でも、子供のことや経済的なこと、いろんなことを踏まえて、離婚せずに何とか「家族」を続けて頑張れたら自分にとっても自信になるのかな、と思ったり、

最小限の社会集団で、距離が近く、長く同じ時を過ごすことで人間関係の難しさも味わう「家族」を続けていくことで夫婦関係や子育てなど他では経験のできない自分だけの貴重な財産を得ることができるのかなと感じています。

 

夫婦、義理の家族たちとの関係、住まい、専業主婦、妊娠出産、子育て、ブランクありからの社会復帰と家庭の両立…

今までも本当に色々と大変だったし、これからも色々あると思うけど、良いことも悪いことも、健やかなるときも病めるときも、きっとすべてが自分の人生にとって必要で大切なことなのでしょう。

 

どん底で苦しいときはそんなこと思えないし、楽になりたい、何もしたくない、と考えていたけれど、自分の人生に少しだけ希望の光が見ええてきたことを今はただ喜び、噛み締めたい。

 

どんな人にも、

どんなにつらいことがあっても、

生まれてきた意味は必ずある。

そう信じて自分を信じて生きていく。

 

そんな仲間が増えていきますように。

 

Pray for peace.

もしも今つらい思いをしている人がいたら

「今だけだよ。いつか必ず終わりがくるよ」

と伝えたい。

そして自分自身にも言ってあげたい、よく言っている言葉たち。

自分で自分を癒すことが周りのためにもなる。まずは自分を大切に。

You had a bad day...

Everything is going to be allright...

 

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「そのままのあなたで大丈夫」の呪い

私がどん底で悩み苦しんでいる時、

救われたのはこの言葉と言いたいところですが、実際には苦しめられた言葉でした。

 

「そのままのあなたで大丈夫」

という類の言葉たち。

 

自分を肯定できずに否定して悩み苦しんでいる自分のことを「大丈夫」なんて思えない!

と逆ギレして余計に落ち込んでいました。

 

鬱や精神病に対するアドバイスで、

「自分を愛しましょう」

「あなたはみんなから愛されています」

「安心してください」

「心の中のインナーチャイルドを癒しましょう」

「つらかった記憶を手放しましょう」

「自分に自信をつけるために行動してみましょう」

「身体と心は繋がっているので身体を整えれば心も整います、散歩をして日の光を浴びてみましょう」

 

などなど、情報過多な現代において確かに効果的な言葉たちがたくさん溢れています。

 

でもね、どん底の時、私はそれらの言葉たちを素直に受け容れられなくて、そんな自分に嫌気がさしてしまって、余計に苦しくなっていったのです…

 

「正論」は時に人を苦しめてしまいます。

「正論」を素直に受け容れて行動に移せる人は苦しみから抜け出せるでしょう。

 

でも、世の中を見てください。

こんなにたくさんの情報に溢れ、

お金、ダイエット、夫婦関係、子育て、病、自己実現、生き方など、いろんな分野における

「正論」で溢れています。

 

それらはすべて

「幸せになるため」のものだと思います。

 

しかし、あなたは幸せですか?

悩みはありませんか?

世の中の人々はみんな幸せですか?

悩みがあるならネットで調べて解決策を見つけて実行すれば幸せになれるはず、

そう思いませんか?

 

でも現実には

いじめや自殺、犯罪、詐欺、貧困、戦争…

自分や他人への攻撃、

悲しい事件が存在します。

 

「正論」ではすべての問題を解決できないのです。

心の病も、人間関係の悩みも、

「こうすれば良い」と分かっていることを実行できれば苦労しません。

 

私はここ7年ほどの間、

どん底を何度も行ったり来たりしながら

ネットや本で解決策を探し彷徨いました。

 

長い長いトンネル…

調べても知識を増やしても抜けられなかった。

 

それは、どん底すぎて自分の心が分からなくなってしまっていたから。

何を信じて実行すれば良いのか迷いや不安があり、「正論」を実行することができませんでした。

そして、そんな自分を責め続けました。

 

良かれと思ってアドバイスをもらっても

素直に受け止められず、

「あんたに何が分かるのよ」

「そんなことは分かってるよ」

「うるさい、ほっといてよ」

と思ってしまっていました。

 

そう思ってしまうこと自体が自己嫌悪で

「自分のためを思ってかけてもらっている言葉をなぜ素直に聞き入れられないんだろう」

と更に自分を責めて責めて責め続けてしまいました。

 

こうなってしまうと心が死んでしまうんですね。

自分の存在を否定し続けて生きる希望を失ってしまった人間には何の言葉も好意も届きません。

自分で自分を責め続けた結果、

周りからの励ましもアドバイスも喝を入れる強めの言葉も、何もかもが

「自分を否定して責める言葉」に聞こえてしまうんです。

自分で自分を否定して責めるあまり、

相手の言葉をすべて

「自分を否定して責める言葉」に変換してしまう。

 

ここまでどん底に落ちる前であれば自分の中でうまく消化して頑張ろうと思えたり期待に応えようとしたり反論したり、何かしら反応して折り合いをつけていけるのでしょうが、

どん底どん底に落ちると心が死んで、脳が思考停止、判断不能状態になるので、

反応すらできなくなります。

 

こうなったら周りの人ができることは何もありません。

アドバイスや心配をすること自体が

その人の今の状態を「良くない状態」と思ってしまっていることになるので、相手は更に落ち込み傷付きます。

 

そこで周りの人が出来る唯一にして最大のことは、そんな状態のその人を全肯定して見守ることだと思っています。

 

ただひたすら信じて待つこと。

いつかは良くなる。

今は休息時間だから何も出来なくて良い。

ずっと寝てても良い。

生きてさえいてくれたらそれで良い。

 

鬱状態で悩み苦しみ何も出来ずにただ毎日死にたいと泣いているような人間に対して、ご家族や周りの人たちはそんな気持ちでいられないであろうことはよく分かります。

私も家族や周り人たちには心配をかけ、アドバイスされて否定された気持ちになり攻撃してしまい、離れて行ってしまった人もいます。

心配させまいと無理に平気なフリをして笑顔を作って、後で大泣きしていたこともあります。

 

だからこそ、頻繁に会う、距離が近い、心配させてしまう家族や友人ではなく、

否定せずに安心して話せる第三者に、つらい気持ちを吐き出して寄り添ってもらうことが必要だと感じています。

 

身近な人では無理、ということではなく、

人間心理として身近な大切な人が悩み苦しんでいる姿を見るのはつらく、「何とかしてあげたい」と思ってしまうものなので、

そんな姿を全肯定で見守り、待つということはどうしても難しいと思います。

 

私自身、子供に対しては全肯定したくても出来ない時が多く、時間がなかったり期待するあまりにイライラして怒ってしまったり、待てなくなります。

身近な人たちの言動を、

「こうしたら良いのに」と思わずにいられないことも多々あります。

思うだけなら口に出してしまうよりは良いのですが、自分の中でそんな気持ちを抱いてしまったと罪悪感を持ったりイライラしてしまうとストレスになってしまうので、出来れば軽やかにスルーしたいところです…

 

よく言われることですが、

「分かっている」と「出来る」は違います。

 

教師時代に親子関係や子育て、教育について色々感じ考え、理想や正論には辿り着きましたが、だからと言って実際自分が子育てしてみて実行できるかはまったくの別問題。

 

理想の子育てができず、望ましくない行動や親にされて嫌だったことをしてしまう自分にショックを受け、落ち込みました。

 

なぜ理想通りに出来ないのか、

それは周りや情報のせいにしても根本解決できず、自分を知ることから始めることで進むことが出来ます。

でも、自分の心に真正面から向き合うのはとてもパワーの要ることなので、ひとりではつらいし、無意識にすぐ元の自分に戻ってしまいます。

そんな時、安心して相談したり支え合える仲間が必要だと思います。

 

今苦しんでいる人はまず、今の自分を否定せず、ひとりでは難しいんだ、焦らなくて良いんだ、そのうち良くなるんだ、と自分に言い聞かせて欲しいです。

なかなか難しいし、私もできませんでしたが、徐々にそれらの言葉を受け容れられるようになってきました。

そのためにも無理せず今の自分をありのまま認めてあげること。

そして、周りにいて見守ることが難しい人は相手のことも自分のこともただありのままを見守って、苦しみが去ることをただ待って欲しいです。

 

いつか必ず抜け出せます。

自分のことも相手のことも無条件で信じて欲しい。

悩み苦しむ、酷いことも多い世の中だけれど、すべての人に生まれてきた意味があるから。

今あなたが存在していること自体があなたを肯定している、そう信じて充電できるまで休みましょう。

大丈夫、焦らなくても良い。

その時は必ず来ます。

 

Pray for peace.

世界に平和を、すべての人に愛を。

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私のビジョンと鬱経験

私がブログを始めた目的は、

「すべての人の心身の健康、

平和、幸せに貢献するため」

です。

 

自分の経験や昔から密かに強く持ち続けていた信念から、自分にも何か出来ることはないか、とずっと模索していました。

 

ブログはきっかけ作り、はじめの一歩。

種を蒔いて大切に大切に育てて、少しでも役に立てたらと思っています。

 

自分の経験や知識という唯一無二の財産を人々のために活用したい。

そのためにも、まずは私の経験を読者の皆様にお伝えしていきたいと思います。

 

 

私は鬱経験者です。

鬱とはなかなか完治しない、再発を繰り返す、誰でもなる可能性がある、と考えられています。

しかし、私はそうは思いません。

きちんと自分を理解して癒し、治していけば完治します。

そして「誰でも」鬱になるとは限りません。

自分を否定することなく、自分の存在を全肯定でき、自己肯定感の高い人は鬱になりません。

なんでもプラスに捉えられる、心豊かな人は負の感情をもらってしまうことも、周りに振り回されることもないので自分軸をしっかり持つことが出来るので鬱にならないのです。

特に日本人は自己肯定感が低いのでまったく鬱にならない人の方が珍しいかもしれませんが、生涯鬱にならない、なりにくい人も一定数存在すると思います。

理由なく誰でも鬱になるわけではなく、心の奥底に種があって何かのきっかけでブレーカーが落ちてしまう、それは我慢し続けて心が疲れてしまったり、無理をし過ぎて限界に達してしまったためで、悪いことではありません。

「もう十分頑張ってきたから、もう休んで」のサインです。

これ以上頑張ってしまったら本当に心身ともに壊れてしまうから。

だから鬱になることはショックだけど、人生の休息時間、自分を見つめる時間としては大切な経験だったと私自身思っています。

 

とは言え、そう言えるのは回復の兆しが見えて、自分のビジョンがはっきりしてきた今だから言えること。

私自身、鬱になった時、再発してしまった時はとてもとても落ち込み、更に自分を否定してしまい自己嫌悪の嵐でした。

精神科へ通い、薬を処方されても一向に良くならず、

お金をかけてカウンセリングや自分を見つめる講座を受けて治ったと思ったのに、結局また鬱状態になってしまい、もうカウンセラーも自己啓発セミナーも信用できず、自分でなんとかしようとその手の本や情報を手当たり次第に読み込みました。

アドラー心理学、勇気付け、インナーチャイルドアダルトチルドレン毒親、鬱や精神病について…

そして、鬱になるのは「自分を嫌いになってしまった結果、自分を否定してしまった結果、生きる気力や希望がなくなってしまった結果」なるのだと気付きました。

そしてその大きな原因は親との関係や家庭環境によるもので、子供時代に

「あなたはあなたで大丈夫」と存在を全肯定してもらえなかったから、でした、私の場合は。

精神疾患と言ってもいろいろあり、私も専門家ではないため、無責任な断言はできませんし、

個々の性格や家庭環境などによって異なる部分もあると思いますが、根幹として自分の存在を全肯定する安心感が不足した状態、

「自分は自分で大丈夫。生きていて良い。生きる価値のある大切な存在だ」という根拠のない自信、何かを達成したからとか、何かを手に入れたからとかではなく、ただありのままの自分をジャッジすることなく受け容れることが出来ない状態が鬱を招いていると思います。

 

私の場合は3人兄弟の末っ子で兄、姉とは年が離れていたため、常にひとりだけ子供扱いされ(当然ですが)、見下されたり、怒られたり、役立たずだと「感じてしまう」ことが多かったようで、

実際はみんなに可愛がられ、甘やかされて育ったのだと思いますが、それが自分の中ではひとりの人間として対等に扱ってもらえていない孤独感になってしまい、いつも寂しかったのだと思います。

 

親になって思いますが、日々家事や仕事に追われていると子供の相手をしていられない時、思い通りにならずにイライラしてしまう時、

「もう!言うこと聞いて!良い子にして!邪魔をしないで!!!」と思ってしまうことがあり、

子供と同じ目線で話したり遊んだりすることも難しく上から目線になってしまい、

自分が幼い頃、親に向けられるととても悲しい言葉、感情を向けてしまう自分に落ち込みました。

 

親になって子育てしてみて、幼い頃親にされて嫌だったことをしてしまうことがとてもショックでした。

 

親に怒られたり、邪険にされた記憶から、自分の中の幼い頃の自分(インナーチャイルド)が

「私なんていない方がいいんだ」

「お母さんにとって邪魔な存在なんだ」

「せめて迷惑かけないように、ワガママ言わない良い子でいなきゃ」

と言っていること、その我慢してきた悲しい思いが溢れて鬱になったことを自覚している私は再びどん底に陥り、仕事や主人やその家族との関係などの悩みもあり、自分が分からなくなり、生きる希望を失い、ネットで見つけた「鬱は治ります」と断言しているカウンセラーさんに藁をもすがる思いで、この人に賭けてみよう、とカウンセラーへの不信感を振り切って相談することにしました。

すぐには解決せず、それからも自分と向き合う、苦しい日々が続きました。

思考の癖は厄介ですぐに戻ってしまう。

自己否定や自己嫌悪が止まらない。

すぐ自分を嫌いになってしまうし、満たされない思いから人に対しても攻撃的になってしまう、そんな自分も大嫌い…なかなか負のループから抜け出せず、悩み苦しみ続けました。

 

頭ではいろんなことが分かってきたのにそれでも変われない。

またこうしてどん底に落ちてしまう、なぜなのか…

 

それはわかった気になっていただけで

「行動できないから」でした。

 

私は周りに迷惑をかけまいと石橋を叩いて叩いて渡る慎重派、完璧主義な性格で、失敗して怒られたり否定されるのが怖くて怖くて挑戦できない大人に育ってしまったため、

学生時代は言われたことをソツなくこなす優等生でそれなりに勉強して推薦で進学し、受験や挫折を経験せず、要領よく生きてきました。

 

でも社会に出ると自分で考えて行動することを求められるし、確認してばかりだと怒られるし、自分で判断できないためとても戸惑いました。

間違えていたら恥ずかしい、怒られるという恐怖心から分からないことを聞くこともなかなか出来ず、うまくいかないことも出てきてしまい、生きづらさを感じました。

 

完璧主義は失敗が怖いため「行動」できません。

でも「行動」しないと変われません。

やってみないと自分に合うのかどうか分からないし、失敗しながら進むもの、と頭では分かっているものの、新しいことに挑戦したり「行動」ができません。

自分を変えたいなら今までと違うことをしてみたり考え方を変える必要があるのですが、思考は無意識なのですぐに戻ってしまいます。

手っ取り早く変わるためには今までと違うことをやってみて失敗しながら自分に合う方法、居場所を見つける必要がありますが、完璧主義は怖くてなかなか一歩が踏み出せません。

 

怖いからです。

なぜ怖いのか?

「失敗したら怒られる」

「恥ずかしい」

「迷惑をかける」と人目を気にしてしまうから。

 

アドラー心理学「嫌われる勇気」という本がありますが、

完璧主義さんは「嫌われる勇気」がなかなか持てません。

完璧でないといけない、と自分で自分を縛り付けてしまい、その呪縛から自分を解きほどいてあげられないからです、私がそうでした、まだ完全には解きほどいてあげられていませんが…

 

だからこそ、こうして「ブログを書く」という新しいことに挑戦しています。

人に自分の思いを伝える。

今までは自信がなくて、心の中で思っていることはたくさんありましたが「発信」することはあまりありませんでした。

 

人から理解してもらえる気がしなかったから…

自分を否定し続けて自信がないため、自分の発信する言葉や思いが理解を得られるわけがない、と決めつけていました。

 

でも、私は世界に伝えたいことがあります。

信念があります。

 

人は変われる。

苦しみから抜け出すことは出来る。

ただ、ひとりでは難しい、理解者が必要です。

人は人によって救われ、癒されていきます。

でも頼る相手を間違えると更に苦しくなってしまいます。

安心できる、全肯定してくれる、否定せず励ましてくれる人に理解してもらい、寄り添ってもらうことが大切、

その段階を経て、自分自身で自分を励まし癒してあげることができるようになります。

 

鬱経験者だから自信を持って断言します。

鬱から脱却して完治させるには段階があります。

いきなり自分を大切にする、否定しない、は難しい。

ずっと無意識にしてきてしまった癖はなかなか変えられません。

そして自分を変えようとすることは「今の自分を否定していること」になってしまうのでとてもつらい。

 

だからこそ、人に寄り添って共感してもらい、まずは今の自分を受け容れてもらってから、

自分の心に少し余裕や安心感が生まれたらやっと自分自身で自分を癒してあげられるようになる。

私はやっと今自分で自分を癒してあげられるようになってきましたが、ここに来るまでも大変でした。

 

「鬱は治ります」と断言されていたカウンセラーさんに寄り添っていただき約半年。

寄り添う言葉や肯定する言葉をなかなか受け取れませんでしたが、やっと受け取れるようになってきました。

寄り添ってもらい安心感が生まれ、やっと自分の心が分かるようになってきたところです。

その分かるようになった「自分」を大切に、自分のビジョンに向かって一歩ずつ進んでいきたいと思います。

 

カウンセラーになりたいとは思っていませんが、悩める人たちが安心して悩みを吐き出してスッキリできる場所作りができたら、と思っています。

そこで励まし合ってエネルギーを蓄えてそれぞれの場所でまた明日を生きられるようなパワースポット、コミュニティを作れたら嬉しく思います。

 

Pray for peace in your mind.

すべての人の心に平和を。

 

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はじめまして&自己紹介

皆さんの心身の平和、

日本、世界の平和、安定を願って出来ることをしていきたいと思ってブログを始めます。


34歳、夫と息子の3人家族、

現在妊娠6ヶ月で9月に出産予定のワーキングマザーです。

仕事は金融関係ですがまだ1年半ほど。

その前は専業主婦、そして結婚前は公立中学校で英語教師をしていました。


高校で初めてアメリカへ、1ヶ月ほどホームステイをしたホストファミリーを訪ねて夫と息子も一緒に一昨年遊びに行きました。

大学で英語を学び、ボランティアサークルでタイ、インド、パプアニューギニアへ行き、夏休みにシドニー、卒業旅行でニューヨークへ。

息子1歳のときに家族3人でもニューヨークへ。海外大好き、旅行好きな家族です。


仕事では色々ありまして…

「英語や世界への興味を広げてほしい!ボランティア経験なども活かして生徒たちのために頑張りたい!」と志し高く教師になったものの完璧主義できつい性格ゆえに空回り、部活指導(女子ソフトテニス部顧問)や生徒会担当など教科指導、担任業務に加えてやることが多く、すべてを完璧にこなそうとするあまり精神的に自分を追い込んでギブアップ…


当時共通のミュージカル「RENT」好きで知り合った現夫と付き合い始めて、多忙な仕事と私生活を両立しきれず、色々あって休職…

罪悪感に苛まれながらも自分を守るために開き直って1年半休み、復職することなく結婚を機に退職。

子供も欲しかったため、自分の完璧主義な性格と多忙な現場を考えると結婚生活や子育てとの両立を考えると復職という選択肢はありませんでした。


しかし、専業主婦になって楽で幸せになるかと思いきや、社会との繋がりがなくなり、仕事をしていないことで何の生産性もなく自分が無価値な存在と感じ、何にも貢献していないと罪悪感を抱え再び不安定に…

休職中、精神科で薬を処方されていたが効果は感じられなかったため、通院や薬に頼らずカウンセリングや講座などを受け自分を見つめ、良くなったり落ち込んだりを繰り返し、結婚1年ほどで妊娠。


あまり吐くことはなかったもののつわりは辛く、食べ物が美味しく感じられず憂鬱に…

夫が長男で、祖父が偉大な弁護士先生という家柄などもあり、周りにプレッシャーをかけられているわけではないのに、お腹の子が男の子なのかと勝手に怯えるが、無事に男の子を出産。

出産までムカムカもやもやした気持ち悪さは続いたため、今回も安定期に入り少し楽にはなりましたがまだ気持ち悪いのは出産まで続くものと諦めています。


教師時代に「人を育てること」「教育」から「子育て」についても考えることがあったが、いざ自分が親になってみると分からないことだらけ、思い通りにならないことだらけ、「こうしたら良い」と分かっていてもできなくてイライラしてしまったり、完璧主義すぎて許してあげられない、いつも笑顔でいてあげられない自分に自己嫌悪の繰り返し…

悩みながらカウンセリングを受けたり子育てについて調べ、

「子供の自己肯定感を育むためにはまず親が自己肯定感を持っていないと」と思う。

自分がしてもらっていないことはしてあげられないし、良くも悪くも「育てられたように育てる」と痛感。

潜在意識にある親のイメージが自分の子育てに表れていることをまずは自覚し、カウンセリングを通して自分を癒すことで徐々に子供に望ましい接し方を実践できるようになっていく(まだ途中だけど)。


そして、子供のすべてを受け入れ、全肯定して自己肯定感を育むためには、

まず自分自身のすべてを受け入れ、全肯定して自己肯定感を育むことが必要と痛感し、子育ての前に自分の心を癒し、育て直し中。


少しずつ子供に対して

「そのまんまのあなたで良いよ」

「ワガママ言っても良いよ」

「泣いても良いよ、好きなだけないて溜め込まないでね」

「いつでも、いつまでも見守ってるよ」

と思えるようになってきました。


それはかつて、幼い頃の私が心の底から親に言って欲しかった言葉。


お母さんに笑顔で穏やかにそう言ってすべてを受け入れて欲しかった小さな頃の自分の気持ちが、末っ子で我慢したり空気を読んで迷惑かけまいと自分の感情に蓋をして封印されていたけれど、大人になって一気に溢れてきた。

子育てを通して自分の親子関係、家庭環境、育てられ方を振り返ることになるとは…

でもそれが子育ての悩みを解決する1番の薬。

自分の過去や悲しかったこと、苦しみと向き合うのはとてもつらいけれど、無視していては変われない。

子育てや仕事、家庭、自分の人生に悩んだとき、苦しいときも

「大丈夫だよ」

「あなたは間違ってないよ」

「がんばってるね」

と言ってもらえるだけで安心するし励みになる。


今、悩み苦しんでいる人がいたら声をかけてあげたい、力になりたい、

そんな気持ちでブログを始めます。


悩み苦しんでいるお母さんたちへ。

「今日のママが幸せでありますように」


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